広報誌みほん
55/60

「母にひとつ、父にもひとつ」柴田薫(北海道・石見沢グリーンライオンズク )※構成/青山研ブラ●2003年7月号 こころのチキンスープ・ライオンズ編もう一度読みたい「あの記事」私は、生まれた時から北海道でしてね。空知で育ちました。辺りは石狩炭田地帯です。ここは戦後の一時期、実に勢いがありました。私の父は小さな炭鉱を経営してましてね、口数の少ない、よく働く人でした。私の少年時代は、そんな寡黙で働き者の父と優しい母に守られて、何不自由ないものでした。ですが、石炭から石油へエネルギー政策が変わって、そのあおりで父の小規模炭鉱など、跡形もなく吹っ飛んでしまいました。家族4人、夜逃げ同様に別の町へ移り住むことになりましてね。急転直下、悲惨な生活を味わうことになりました。父は、その前から眼病を患っていました。夜になるとホウサンで目を洗ってましてね、よく見えないのに、見える振りして倉庫番や夜警をしてました。母も、目があまり良くなかったんです。母は仮死状態で生まれたとかで、子どもの頃の栄養失調などもあったのでしょうか、て、送金も途絶えがちになりま「クサレ目」だと嘆いていました。目ヤニを拭き拭き、毎晩、夜なべで和裁の手間仕事でした。そんな両親の姿を見て育った兄も私も高校を出てすぐ、就職しました。毎月、家に仕送りをしてましたが、母はよく言ってたそうです。「あの子は、やさしい子だ」って。人づてに聞きましてね。そんな母の言葉がただただうれしくて、昼を抜いてでも母に仕送りをしたものでした。親孝行だとおっしゃるんですか。いやいや、そのうちに、60年代のロカビリーブームの到来ですよ。もう迷うことなくドップリでした。プレスリーにベンチャーズ、それにビートルズですよ。ギター片手にバイクだ、車だ、おまけに女の子にもモテモテでして、我が生涯で一番大忙しの時代を迎えたわけです。次第に家にも寄りつかなくなっした。親不孝を絵に描いたような、青春時代の十年間でした。札幌のあるディスコのステージにいた夜でした。父が脳溢��血で倒れたと知らされました。死に目には間に合いましたが、母が言ったんです。「父さんは、緑内障でほとんど目が見えなくてね。道路ですれ違った人みんなに、失礼のないようにあいさつしていたんだよ」責めました、自分を。なぜ一度も目医者に連れてってやらなかったんだ、俺は。何がギターだ、何がディスコだ。責めたって父は生き返りゃしません。涙が止まりませんでした。間もなく、私は結婚し、母を呼び寄せて一緒に暮らし、かわいい子どもにも恵まれました。そのうちに親しい友人の勧めでライオンズとも出会い、因縁でしょうか、クラブの先輩が灯したアイバンクとの出会いもありました。アイバンクは、私の人生の後半を語るになくてはならないものになりました。苦労をかけた母も死んで、私も還暦を過ぎました。やがて、そんなに長くないうちに、私も親不孝を詫びながら、父母の元へ参ることになるのでしょう。妻にはもう言い渡してあります。まさかの時には角膜提供の連絡を忘れずにってね。母にひとつ、父にもひとつ……。両眼のない私の姿を見て、「どうしたの、それ」って、母はきっと優しく手を差し伸べてくれる、と思っているんです。『ライオン誌』バックナンバーから、読者の皆さんにぜひもう一度読んで頂きたい記事をピックアップ。スペースの関係上、多少の編集を加えている場合があります。LION2017年3月号■本欄で紹介した記事を含むライオン誌アーカイブが、www.thelion-mag.jpでご覧頂けます55

元のページ  ../index.html#55

このブックを見る